こんにちは。
これまでのおさらいをここで一回しておきたいと思います。
城西支部は、基本や移動、型の稽古だけでは身につけることのできないセンスやテクニックを養成するために、総本部出身の山田雅稔師範によって「試合クラス」が設けられました。
そのことによって、城西支部からは5人の体重無差別の全日本大会の王者を輩出することに成功しました。
かたや緑健児や八巻建志といったのちに体重無差別の世界大会で優勝することになる選手をだした城南支部は、城西支部のような試合クラスは設けず、基本と移動と型の稽古だけをみっちりとやり、その中で試合に上位に上がれた人間だけを「朝練」によんで、城西支部のような試合クラスのような試合向けのトレーニングを施した、ということでした。
●ここで注目すべきなのは城西と城南の両方とも、
「基本、移動、型だけの稽古だけでなく、試合向けのトレーニングをして本当に強くなることができる」
ということだと思います。
両支部に、その施し方に違いはあるとはいえ、試合向けのトレーニングはやはりどうあがいても必要であるということを確認したいと思います。
最初から、試合向けのトレーニングはさせないで、基本と移動と型をみっちりとやらせるという教えない主義が功を奏し、城南支部は、緑健児と八巻建志という2人の体重無差別の世界大会での優勝者や4回も全日本大会で優勝した数見肇という強豪を生み出すことに成功したのです。
そして、89年から11回も連続して全日本と世界大会で決勝の舞台に選手を送り出すことにも成功したのです。
その最終回は99年の第7回世界大会でした。
●そして次の年の全日本大会では、ケガのために数見肇は欠場しました。
その全日本大会の2日目には城南支部の選手は3人が残っていました。
しかし、その年の全日本ウェイト制軽重量級で3位に入った菅野哲也は相手の伊藤慎に足技で翻弄され全く自分の組手ができずに敗退。
そして城南支部で最も期待のかけられていたのは、前々年前年とウェイト制重量級の2連覇した志田清之でしたが、総本部の伏兵の池田雅人選手に正拳突きの連打でめった打ちにされ本戦で完敗。
残るのは菅野秀行のみ。
菅野選手は、その年の全日本ウェイト制軽重量級で準優勝した住谷統に3回戦で延長2回で辛勝するも、次の4回戦で前の試合で全体力を使い果たした観があり、全く一方的に敗退をしました。
この時点で、城南支部の連続の決勝進出の記録は途絶えました。
次の年の全日本大会では、初日で城南支部の選手が全員敗退しました。
●その時の、数見肇のコメントは以下です。
「城南勢の敗退は言葉もありません。
勝つも負けるも最終的には本人の自覚次第。
本当に優勝したい気持ちがあれば、自分でどんどん工夫して追い込んで稽古をする。
でも、今の城南の選手は朝練や帯研にでて満足してしまっている。
稽古をこなすのが目的になっている。
勝利という目的のために稽古はあるんだということを今一度噛みしめてほしい。」
非常な箴言であると思いました。
その支部の稽古理念がどんなに素晴らしくとも、それを自分に適応させなくては意味がないということですね。
いくら多くの強豪を生み出した城南支部の稽古内容でもそれだけではいけないということですね。
ここで確認したいのは、支部の稽古理論やメニューが素晴らしくとも、それだけをこなしているだけでは強くはなれない、ということです。
●やはり数見館長が言うように、工夫をせよ、ということですね。
自分にはどういったことを補わないといけないのか?
自分のウィークポイントは何か?
逆に、自分にとって得意技は何か?
こういったことは本人にしかわかりませんから、弱点を矯正し、得意なものは更に得意にするための自主トレは自らおこなっていかなくては強くはなれない、ということですね。
これまで何回か公開してきたように、緑健児は世界大会までずっと毎日朝起きたら、ジャンピングスクワット100回を2セットを日課にし、そのうち週1回は100回を10セットこなしたようですし、数見肇は城南の1コマ3時間から5時間はあった朝練の後、1時間以上の自主トレをこなしていたようです。
やはり、試合で勝っていける強豪たちは、合同のトレーニングや稽古以外にも自主トレを自らおこなっていたようです。
そのことを確認しておきたいと思います。
今回はこれにて終了したいと思います。
ここまでの御精読ありがとうございました。
『フルコンタクト空手で必ず強くなる方法』
空メール登録は こちら